鎌田流棒の手

棒の手は尾張岩崎の国が、いざ合戦というとき役立つようにと、領民に武芸 の技を教えたのが始まりといわれます。
破竹の勢いの普及ぶりは百カ村を数え、農民といえども、優れた技量を身につ けていたと思われ、その戦力は"小牧長久手の戦い"において徳川方の勝利に 大きく寄与したと、古文書にも記されております。
そして宮口の住人深田左兵満孫が、その奥義を極めて三河国にも"鎌田流棒 の手"として広めてゆきました。
世が治まり、その後の棒の手は猿投神社の祭礼に奉納するという晴れやかな 舞台に登場して、長い歴史と伝統を培ってゆきます。
棒の手奉納の習わしは、"合宿"と呼ばれる村ごとの集団によって、支え守ら れておりました。
宮口村を中心とする本地村、千足村など十一ヵ村の集団である、宮口合宿は他 のいずれの"合宿"よりも一段と強力で、大きな特権を持ち、恐れられていた ようです。
毎年、旧暦九月九日、猿投祭りが近づくころ、各村々では棒の手の稽古が始 り、かがり火やたいまつの明りの下に"ヤーホートー"のするどい掛声が飛び 交い、老人、若者こぞってのそれは賑やかな光景が繰り広げられたと思われま す。
やはり、演技上手な若者に娘たちの人気が集り、声援も飛ぷので、 娯楽といえども、そうとう熱のはいった練習が続いたことでしょう。
祭礼前夜、村の広場に勢ぞろいした村人の出で立ち、いかにと見れば……
陣笠、陣羽織、手甲脚絆にわらじを履いて、槍、長刀、長柄の鎌棒、木太刀な どの武器を持ち、さぞあっぱれな晴姿だったと思われます。
そして、女子や子供達の見送る中、先頭に定紋入りの提灯をかかげ、献馬を 引き連れ、空砲の種子島を打ち上げ、ほら貝を吹き鳴らして出発する行列は、 勇壮で実に見事であったと云われています。
同じ集団の村々と合流しながら、夜を徹しての行進は、夜明け間近か、一の 鳥居(現亀首町)あたりで、十一ヵ村全員の集結となります。
その時に厳格で、難しいと今でも語りぐさになっている"仁義口上"が述べられます。
やがて、猿投神社の境内にて、各"合宿"による棒の手奉納の競演とあいなりますが、 互いの気持の高ぷりも加わって、槍、長刀の入り乱れる喧嘩となることも、珍しくな かったようです。
"尾張合宿"と献馬や"ダシ"の奪い合いとなり、大勢の負傷者を出しながら も"ダシ"を奪ったこと、そしてその"ダシ"が長いあいだ千足村に保管されて いたというのが、ある古老の自慢話だったということです。
明治二十三年、三月二十九日、名古屋別院において、宮口村の篠田文二郎、篠 田金次郎の両名が、明治天皇の御前にて、棒の手を演じて天覧の光栄に浴したとい う記録も残されています。
このような棒の手の輝かしき伝統も大正末期ころから、衰退の一途をたどるようになり、 太平洋戦争により久しく中断されてしまいます。
終戦を迎え、世の中が落ち着きをとり戻したころ、村の古老の間から、棒の 手再現の願いが高まり、青年会員らによる、関係方面への熱心な運動も実を結 び、市、県の無形文化財の指定を受けるところまで復活してきております。
現在、宮口の住民は全戸保存会員となり、若者や子供達が威勢のいい掛声で練 習に励んでいます。
そして、猿投神社、宮口神社の祭礼には揃いの衣装に身をかため、棒の手演技 の協賛をしております。
又、要請があれば、他方面の行事にも積極的に参加して、ヤンヤの声援や拍 手を浴びております。

目次次へ