【本地村のお隣りさん】

逢妻女川に添うように僅かに 傾斜している塩の道(その昔、 三河の海でとれた塩を挙母、 足助を経由して遠く塩尻まで 運んだ街道)を登ってきて、 郡界橋のある乙尾を過ぎると 田代山があります。
松や雑木林ばかりの土地を 後藤さんが開墾され、戦後その 畑を中心に20数軒が入部して 集落ができました。
縄手(田の中の小路)を過ぎると 台地上に明治以前には四軒しか家が なかったことから名前が付いたといわれる 四ッ家の集落があり、光蓮寺という庵寺と 11軒の家がありました。
三九朗病院を創立された院長先生の家も あり、ご先祖の国サは何体も何体もの 仏像を屋敷門で彫っておられて、八幡社の 狛犬も寄進されています。
喜作サは金魚屋さんで、家の裏には金魚藻の間を泳ぎまわる金魚や鯉の池があり、 肺炎などを患った近辺の人が黒鯉のお世話になっていました。
その東はどの村にも一軒はあったといわれた鍛冶屋さん。
小学校唱歌、村のかじやそのままに真っ赤に焼けた金属をトンテンカン、トンテン カンと打って鍬や備中など農具のサイガケの仕事をしていました。
子供が古釘など金物を持って行くと小使いくれたものですが、その古釘を溶かして 摩耗したホサキに火作りしていたようです。
家庭用の鍋や釜のお尻にあいた孔も、修理してもらいました。
道を隔てて農業のかたわら、鉄砲で野鳥などを撃っておられた清次郎サの家があり、 裏のタブの大木は夏には涼しい木陰をつくり、近くの者が将棋などをする溜まり場 でした。
深い井戸もあり釣瓶で汲んだ水は冷たくて美味しかった。
清次郎サといっしよにヤナでドジョウをとっておられた常サと、八郎サは兄弟で、 ご先祖は、明治時代に逢妻村村長をされた加藤浅平さんです。
権サは農閑期になると、副収入としてイカケ(ざる)を作っていて、柏の木のある 庭の日向で、割いた竹をしなやかになるまで、薄く細く削って器用に編んでいました。
善重サの家の東北隅にお天王さん が祀ってあり、祭礼には子供たち が疫病除けに参詣しました。
光善尼さんという老庵主がいら した光蓮寺は花まつり(お釈迦 さまの誕生日)には、甘茶を釈 迦像に注いだり、歳弘法にお供 えした供物を、戴いた思い出が あります。
残念なことに、三代目の光瑞さん が亡くなって廃寺となりました。
高台の藤太郎サからは、城の越から 打越まで眺望できたし、甲川から 清水を引いて、作庭された忠サの 裏庭はとても見事でした。
兼十サの裏には洗い場があり 50m上ると水車小屋がゴットン ゴットンと回っていました。
四ッ家の北側を流れる、甲川の 土橋を渡り、田んぼの道を行くと 字屋敷に至ります。
地名が示すように本地村の中心地 です。
二本の県道の交叉点には 常夜灯があり、今も秋葉神社の御札を祀った箱が村中をまわり火伏せを願っています。
この地域は杉本家、光岡家、加藤家、 近藤家、三浦家、竹尾家、水野家など 本地村創立期の古い家が多く、 30数軒の家が密集していました。
清一サの清商店もあり、日常生活 に必要な食料品、調味料、菓子類 酒、煙草、葉書などは殆ど入手でき、 氷、ミカン水、トコロテンは子供に 魅力的だったし、釣道具などは 大人にも楽しみな場所でした。
今は拡幅、改修されていますが 以前の宮上知立線の一部を杉山、 加藤両家の間に見ることができ、 昔の大通りの広さを確かめられます。
文中(サ)という呼び名は(さん) の省略で家を表わした親しみを込 めた通り名です。

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