二そく七わのゆくえ

かれこれ百数十年もむかし、本地村(今の本地町)の本郷にあった話です。
ある年の秋も深まつた十一月の初めごろ、村の百姓である六兵衛は、つい先 日のいねかりのほの重みを思い出しながら、二池堤にほしてあるいねたばの見 回りに出かけました。ところが、近づくにつれて、何やら不安な気持ちにかり 立てられ、急いでかけよってみたところ、 「や、これはおかしいぞ。数が足りぬようじゃ。」
六兵衛は、気を落ちつかせて、たんねんにかかえ上げては、一たば一たば数 えたのですが、どんなに数えなおしても、二そく七わだけ、いねが足りません。 「これは大変じゃ。ねんぐをおさめることもできんわい。」
六兵衛は青くなつて、庄屋の勘兵衛のところへかけこみ、事のあらましを申 し出ました。そこで村じゅうそう出で、より合いを開いて、根ほり葉ほりたず ね合いますが、まったく見当もつきません。
そこで、神主である八桂にうらなってもらったところ、「遠くへは、とられておりませぬ。」 と言われた。
しかし、このままほうっておくわけにもいきませんので、みんなでそうだんのすえ、 わら人形を作って、せいばいすることに決めました。
午後二時、食事もはやばやとすませ、村人たちは、自分の仕事もやりかけにして、三 人、五人と赤はげ山に集まって来ました。
みんなは顔を見合わせて、 とつぜんに起こったいやなできごとについて、話し合いを始めたのです。
やがて、山の小さな空き地にわ一ら人形が立てられ、 みんなでせいばいしかかったちょうどその時、六左衛門がひとりおくれてやってきました。
顔色がすぐれず、様子もおかしいので、みんなはふしんに思って、 「六左衛門さ。いったいどうしたというのだえ。」 「六左衛門、なんでおそうなっただ。」 「おまえ、まさか……。」 口々につめよったのです。
小さくなって地べたにすわった六左衛門は、やがて、ポツリ、ポツリと口をわり始めました。
「おらあ、六兵衛さとこのいね、ぬすんじまっただ。おらんとこは、病人が おったんで、田の草取りもろくにできず、ちっとしかとれんかっただ…。 あとでたいへんな心えちがいしてしまったと気づいただ。許してくれ。」
五人組がしらの重左衛門は、すぐには、はんだんできず、親るいのものに もたしかめてみたところ、やはり、まちがいないとのことでした。
そこで組がしらの重左衛門は、庄屋さんに知らせようと道を急いだのです。
その間、赤はげ山では、わら人形のせいばいもそれまでにして、みんなで六 左衛門をかこんで、山を下り、村へ帰ってきました。
親るいのものは、六左衛 門をまん中にして、事のいきさつやら、かくし場所を聞き出していましたが、 六左衛門は、まわりの目をぬすんで、松元寺にかけこんでしまいました。
おしょうさんもこまりはてて、考えこんでいるうちに、六左衛門は、またもや、この 寺を逃げ出してしまいました。
庄屋さんは、たび重なる不しまっに、ほとほと手をやきながらも、みんなで ゆくえをさがすように、言いつけたところ、 「となりの土橋村で、たしかに、六左衛門に会ったと、だれかが言っていたが……。」
「東海道を通って、赤坂(今の宝飯郡赤坂)あたりまで行ったげな。」
と、聞きつけて、みんなは心配しておりました。
ところが数日後、六左衛門は吉川村の新之助という男をっれて、ひょっこ り村へ帰ってきました。
そして、 「庄屋さま、前にはあんなこと言っただが、ほんとうは、悪いことはしていな いだ。おらのやったことじゃねえだ。」 と、前に言ったことを取り消したのです。
庄屋の勘兵衛は、今までのいきさっから、すぐには返事もできずにいると、 次の日には、二人で有脇村の庄屋の「六左衛門には、つみがない。」という、 そえ書きを持ってゆるしをもとめてきたのです。
しかし、その文章にはくいちがいもあるので、となりの本地村新田切の庄屋 の源七ともそうだんして、西尾藩のお役所へ申しあげようということにまとま りました。
二そく七わのできごとは、なかなか決着がつかず、日がたちました。いねを とられた六兵衛は、もういかりも悲しみも通りすぎてしまい、田んぼの見回り に来てはあぜにこしをおろして、いつまでも、ぼうっとしておりました。
村人たちは、気のどくがって、ことばをかけ、明るいもとどおりの六兵衛に なってくれるようになぐさめました。

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