石になった弁天さま

むかし、むかしまだこのあたりが草深い山里だった頃のこと。
本地八幡社の神主さんが、はるばる、江戸へ出向いて、弁天さまを授かって来たんじゃと。
身の丈が六寸ほどの木彫りの弁天さまでのう、まるで五色に光り輝くような、 それはそれは美しいお姿だったそうな。
八幡社の近くの山に小さな祠を建てて、さっそくその弁天さまをお祀りしたんじゃと。
村人達は、毎日のようにそのお姿を拝見しにやって来てのう、誰もかれもが 「なんと美しく、お優しい弁天さまじゃ、心が洗われるようじゃ」 と.深く手を合わせたものじゃた。
いつしか、この弁天さまの噂は、遠く離れた里、又、里にも伝わり、参拝す る人は後を絶たなんだそうな。
ある日のことじゃった。 「わしも、一目弁天さまを見てみたい」 と一人の若い男がやって来てのう、御多分にもれず、弁天さまに見惚れて、時 のたつのも忘れてしまった。
いつの間にか、日も暮れ、あたり一帯が薄暗くなって、祠の前にはその男一人 になってしまってのう、ふと気がっくと、男は両手に、弁天さまを抱きかかえ、 無我夢中で走り出していたんじゃと。
そしたら、ものの一町も行かないうちに、木彫りの弁天さまが、石のように 重く、冷たくなって、男の身体も思うように動かなくなり、一歩も進むことが できなくなってしもうたそうな。
「これは、いったいどうしたことじゃ……ひょっとしたら弁天さまの崇りで はあるまいか」 と思うが否や、急に恐ろしくなって、 「弁天さま、悪うございました。亡くなった母の姿が思い浮かび、つい懐かし くなって……悪うございました。」 男は後悔の涙を流し、何度も、何度も頭を下げたんじゃと。
するとどうじゃ、あんな石のような弁天さまが、また美しく、優しい姿にも どったという。
男は心からお詫びをして、元の祠に丁重にお返ししたそうな。
あれから、幾年もすぎ、ほこらの傷みに伴って、弁天さまは、八幡社の神 主さんの家に祀られることになった。
しかし、今なおこの里の人々は、祠のあったあたりを、弁天と云い、代々 語り継いでいるということじゃ。

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