やまのこ

山の神様のお名前は、大山住命といい、日頃は目立たない山中の社にまつら れているので、私達も疎遠がちですが、考えてみるに、どこの村落にも必ず社 があるということは、昔の人にとって生活していくうえで、最も身近な神とし て存在していたと思われます。
春には里に下り、田作りに精を出す田の神として、秋の収穫後、近くの山へ 戻り、林業や、水源の神として、親しまれていたようです。
"やまのこ"は村の安全と豊作に感謝して、この神様を供養する祭礼で、昔 はたいそう盛大に行われていました。
村の世話人を中心にとり行う祭りですが、いつの頃からか、子供が参加し、 主役を務めるようになって、これという娯楽のなかった時代、子供にとっては 一年中で、一番楽しい一日であったかと思われます。
祭礼日も、山へ戻られる旧暦十一月七日に統一されていて、前日六日の前夜 祭はどこの村の子供も太鼓を打ち鳴らし、意気揚々と村中を廻ったものです。
廻り廻って、村はずれまで繰り出すと、隣村の同じ集団の子供らと勢いあまっ て、喧嘩をするようになり、"やまのこ"は誰言うとなく、子供の喧嘩祭りと 言われるようになっていきます。
喧嘩は次第にエスカレートし、大正初期には双方の子供らが、敵のいないの を見計らって、お互の"どんど"に火をっけ、逃げ帰るという売々しさを増して いきます。
このため、小学校では山火事の危険を心配し、子供に対して祭り参加を禁止し た時期もありました。
威勢のいい方へ話しが逸れてしまいましたが、本来の"やまのこ"は、祭り の早朝、社の前で行われる"どんど焼き"が中心行事で、山のように積み上げ られた"たきもの"にいっせいに火がつけられてそのクライ.マックスを迎えます。
大人達は酒を酌みかわし、子供等はおこわの焼きおにぎりや、ちくわ、こん にゃく、さといもなどの煮付けを、楽しげにほうばるのです。
"どんど焼き"の燠で焼いた豆ご飯のおにぎりは、病気にならないとの 言伝えがあり、以前はどこの家庭でも、おにぎり重箱につめて"どんど焼き" に持参し、お供えした後、焼いて食べたものでした。
(この風習は今でも一部の家庭で残っているようです) やがて山火事かと間違えるほど勢いの強かった"どんど"の火も衰え、消え かかる頃、祭りも終わります。
当時の子供がいかに"やまのこ"を心待ちにしていたのか、彼らの働きぶ りからもよくわかります。
例えば"どんど焼き"に使用される"たきもの"は十日ぐらいも前から集 めにかかり、下級生は麦がら、豆の木、わらなどを貰うために車を引いて家々 を廻ります。これらの物は日常用の燃料として各家にふんだんに蓄えられてい ました。
一方、上級生は河原に出かけ、台風どきに流されてきた材木片、枯れ木など を拾ってくるのです。
こうして集められた"たきもの"は大八車四、五台分にもなったといいます。
さらに、どんど焼きに食べるごちそうも、前日の夜、"宿"に集まった世話 人と子供らがタ食を共にした後、神様にお供えするため精をだして準備したも のです。
祭りの当日、夜明けのまだ薄暗さの残るなか、社へ通じる、早霜に覆われた 白いあぜ道を先頭きって駆けて行っただろう子供達。
そして、自分の思い出と重ねて、彼らにずっと理解と協力の目を向けていた だろう大人達。
村の行事を通してお互いに心のふれあいを育てていったことだろう。

目次次へ