萬さんの音噺

その一 太郎左の提灯とぼし

千足の川端と三好打越の村界に、明蓮山という、うっそうとした森があってねん。
そうそう近年、トヨタ自動車、三好工場の増設に伴い、幾つもの窯跡が発掘 されて……あん時や驚いたで……市の調査により中世の・古窯だと、お墨付きを いただいた場所だがねん。
今もお州原さんとお薬師さんが合祀してある社があって、その社の後の小高 い竹薮の周辺を、昔から太郎左在所と呼んでいたがねん。
噺というのは、むかし、むかしその太郎左在所から畔を下って松元寺裏へ、 人魂が通ったということだがねん。
昔は死者を大地に返すという思いが強くて、どこでも土葬だったで、酉の日 の夜も更けるころ人魂を見たという話は珍しくもなかったがねん。
それにしても、なんにも松元寺裏で消えんでも、本地の屋敷まで帰って行け ぱいいのにねん。
そう云えぱ畔にそって明蓮山まで本地八丁目と区切られている土地があるの もなんか不思議だわねん。そう思わんかん?
これが俗にいう"太郎左の提灯とぼし"だが、この噺をもう少し進めて、例 えぱ人魂が畔を下ったのではなく、登って行ったと仮定すりゃあ、どうだろう。
本地の屋敷からでも、川端の鳳面館(ほうめんやかた)からでもいいが、当時の焼物師が火加減を みに、夜毎窯場へ通ったと考えられまいか。
そう考えると現実的につじつまが合うが、いかんかねん?
さらに、ここらへんの窯は官窯だったそうで、国に納める高価な茶碗を作っ ていたと云うから、上物ができると、夜蔭に乗じて……
と噺を進めていくと、こりゃ、下手な小説より面白いと思うがねん。

その二 戻った鳥居の額

むかし、むかし、千足村じゅうに流行病が広がってのう、大層難儀をして困りはてた名主さんが氏子を集 めて厄払いの祈願祭を行ったげな。
昔のこととてよう分からんが、法院さんに頼んで、ご祈祷してもらったと違うかねん。
その証拠に、今でも千足は、厄年の人に授けるお守りは"厄除守護符"だでねん。
話が逸れたが、そのご祈祷中に「額が米津で呼んでいる」とお告げがあったそうな。
そこで相談の末、総代さんが米津まで出かけて色々探したところ、なんと先の大水でながされてしまった千足神 社の鳥居が米津橋の橋げたに引っ掛かっていたそうな。
そこで鳥居はともかく、額だけを大切に背負って帰ってきてのう、早々建て 替えた鳥居に"八王子。の額を掲げたという。
するとどうじゃ、信じられんことだが、いっぺんに村中の流行病は癒ってし まったそうな。
鳥居が流されるなんてあまり聞いたことがないから、あの明和の大水はよほ どの鉄砲水か、地滑りが起きたんじゃなあ。
池の堤防も切れてしまったというし、その流れ出た土砂で、逢妻女川あいづまめがわに中州が でき、川の流れが西に向かって、鉄砲水となり、直接鳥居を洗ったんじゃない かん。
新屋の前の畑は、島合という地名だでねん、やっぱしそうかも知れんぞん。

その三 幻の神宮ランナー

"神宮ランナー"と云っても、今の 人には解らんわね、国体選手のことだがねん。
昔は、明治神宮の外苑グランドで、毎年開催されていたので、そう呼ぱれていたんだわ。
神宮ランナーになるには、まず町、郡、県の三大会を走り抜いて、県の代表に選ぱれにゃならんかった。
そんな夢のような神宮行きのキップを必ず手にすると、平気で口にする人がおったねん。
"太一っあん"だがん。
あの頃、青年会には走ることの好き な人が大勢いたし、会長の才一.さんはなんでもできる人だったで、千坪ぐらい の場所の草を刈り、地面をならし、粗削りながらトラックを作ってしまったがねん。
練習も活発で跣のまんまでよう頑張ったもんだ。
その格好な広場は、鴻巣池の裏で、今になって考えると、"高根古窯跡"の上を走っていたとは、知らなんだわねん。
才一さんと太一さんは強くてのう、どこの大会へ出ても、千足と言えぱ賞品かせぎの常遵でさえ一目おいていたで、 伴走にっく者もいい気分で楽しんでいたわねん。
特に太一さんは長距離を得意としていてね、笑い話にも残っているだが、 ロードの途中、娘を見かけるとわざわざ立ち寄って水を飲んだりしたもんだ。
そのようにふざけるのも、余力があってのことだが、この余力がかえって仇となってしまったぞん。 神宮への予選会で八事の裏山コースを走った時、やはりふざけたんじゃろうな、 伴走の自転車に乗っているのを、見つかってゴール手前で失格となってしまったがん。
その後、念願かなって招待選手として神宮のキップを手にしたけんでも、 八事の失敗がもとで、出場停止処分にされてしまったぞん。
そればかりか、誰かが密告したと騒いだことも不利になって、以後、郡の大会にも出してもらえなんだ。
記録さえ残さず、幻のランナーと呼ぱれた太一っあん、本当に残念なことをしたもんだ。

その四 乳揉みさん

昔はねん、食べ物も悪かったで、子を産んでも十分に乳を出せる女は少なかったぞん。
ミルクを買うなんぞ、話にもならなかったし、貰い乳をするのも、珍しいことではなかったがね。
そんなんで乳呑み子だってすくすく育つはずがないわねん。子を産んだ女は、乳揉みしてもらって、乳をだす努力をしたもんだ。
千足の乳揉みさんは小柄で品のいいお婆さんで、上手だったで、遠くから、多くの人が尋ねて来たもんだぞん。
京都の清水さんの経文を唱えながら、太目の数珠で乳線を揉みほぐしていったねん。
乳呑み子を抱えた女には、本当に救世主のような人だったねん。
話は変わるが、乳の足りない赤子や病人にとって当時の貴重な栄養源は、おも湯だったぞん。
ご飯を炊くだらあ、そのブクブクと吹いてきた時、お釜の蓋をきると、温度が 急に下がるのでご飯の表面に、お粥のようなトロッとした層ができるがねん、 それがおも湯だがねん。
一口におも湯と言っても、火の加減と、蓋の切る頃合がこれ又、結構むつかしい。
早ければ糠臭くって呑めたもんじゃねえし、遅ければ水が引いて、おも湯がとれんようになってしまうわねん。
炊き直すにも、余分な米も時間もない、今とはえらい違いだねん。
なんぞと話しても、今の人にはよう解らんわねん。

その五 鈴木家の祖は日向守さん

千足で鈴木の姓を名乗っている、わしらの壇家寺は寺部の随應院だよ。
毎年お正月に十七軒がうち揃って、お年頭のあいさつに出かけると、遠くから矢作川を渡って来る村として、 お寺さんが敬意を表して、お膳をだしてくれるがねん。
他の村の壇家には、でないもんだから、一時総代会でもめたことがあったけんど、 寺部城主、日向守重教侯(ひじうがのかろしげのりこう)の血を引く壇家衆と云うことで、 みんな納得して治まったそうだがねん。
この日向守さんが、わしら鈴木家の祖という言伝えは根拠があってねん。
上の栄さんの家には、立派な位牌さんと日向守さんの守り本尊である金仏が祀ってあったというねん。
日向守さんの兜に奉じてあったという金仏はその後お宮に納めたと云う人、 さらにその後、御獄山に安置してあったと云う人、色々な話しがなされたが、 火遊びが原因で火災となった焼け跡には、なにもなかったと当時の世話人さんが言っとったねん。
なんにしても、惜しいことをしたもんだぞん。
位牌さんの方は、余り聞いたことがないような、十二文字で、観音院の神付 きだと云うことだから、ひょっとすると栄さんとこは、その昔お殿さまだったかねん?
そんにしても、珍しいものだぞん。
そんな、こんなで、もう調べようもないことが多いけれど、昔噺は代々伝えられているわねん。

目次次へ