深田佐兵満孫伝

今から百七十年位前のこと。 宮口に深田佐兵満孫という人がおりました。
幼少の頃から文武両道に優れていましたので、挙母ころも城主、内藤山城守の剣術 指南であった海老名三平の許に弟子入りして剣術を学びました。 若者になり、持前の素質の良さと、真面目な努力によって、師を凌ぐような 剣の達人になりました。
ある時、思うところがあって、石巻山(豊橋)の岩場において、七日七夜の 参籠と厳しい修練を重ね、その甲斐あって悟りを開き、石巻我心流の一派を編 み出しました。
そして郷里に帰り、屋敷の内に道場を開き、近在の若者に武芸を教えていま した。
その後、尾張の国より猿投神社に棒の手が奉納されることになり、深田佐兵 満孫は、尾張、岩崎城主の家臣、鎌田兵太寛信の鎌田流棒の手を研鑽し、 免許皆伝の巻物をいただき、三河における鎌田流棒の手の開祖となりました。
三河の各地に棒の手を広めて、最盛期には百ヵ村を数える普及ぷりだったとい われています。
佐兵満孫は剣術や、棒の手の指南のかたわら、近隣近郷の政や、行事にもす すんで参画し、村人の色々な相談にのったり、生活の苦しい人には援助の手を 差し伸べたりして、常に村人達の指導的な立場にあったので、神様のように崇 められていました。
そのような行いに対して、挙母藩の殿様から褒美として、上下の正装と大小 の刀を拝領いたしました。
晩年、これを着用して自らの手で自画像を書き上げ、さちに和歌三首を添え て、柚にした物を後世に残しています。

亡きあとで病んで難儀するならば一心かけて我を頼めよ

七十二才で他界し、心行院徳誉覺翁禪門(しんぎょういんとくよかくおうぜんもん)として、 手厚く葬られた佐兵満孫のお墓は、宮口村の小高い林の中にあり、 昭和の始めころまでは願いごとをこめて数多くの善男善女がお参りに訪れました。 常に供花は新しく、ローソクや線香の絶え間がなかったといわれています。

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